人は、1番大変なときに出会ったものは、きっと1番美しい

2021年宮島弥山の山伏修行 良いことも、悪いこともどんなことも、すべてギフト。 でも、それをマイナスに捉えるのか、プラスに捉えるのかは自分次第。 レポするのに、少し時間がたってしまいましたが、今年の4月中旬、コロナ禍の自粛期間中に実施された5回目の宮島弥山での山伏修行について、記憶をたどりながら書いてみます。 そもそも、山伏って何?と聞かれることが多いのですが、宗教ではなく、祈りです。 宗教は、人が作ったものですが、祈りは自分の心が神様と向き合うこと。 山に祈り、空に祈り、自然に祈り、自然災害で亡くなられた方のために祈るだけ。 (※「山伏とは?」を知るには、本日6月26日土曜日23時より、NHK教育テレビ、私の尊師である、山形羽黒山伏13代星野先達の特別番組が放送されますので、ぜひそちらをご覧ください。) 昨年もコロナ禍で山伏修行は中止になり、今年は残念ながら、山形羽黒山伏13代星野先達はお越しになれなかったのだが、 お世話役の方々が、何度も何度も協議を重ね、岡山の山伏、三浦先達と広島山伏チームで万全の対策を期して決行となった。 3日間の修行中はそもそも山伏は無言。山の中をひたすら歩き続けるのみ。食事も「行」で、無言で30秒くらいで済むことなので「密」とは無縁だ。 口にして良い言葉は「受けたもう」。あとは祝詞やご真言の祈りだけ。 毎年、この時期の修行は春の日差しが少し暑く感じるときもあるくらいの、自然の中を歩くには最高の気持ちの良い季節。ただ、今年は初めから雨の予報で、気温も例年になくとても低い。夜寝る時には、布団や毛布が必要なくらいだった。 すべて「受けたもう」のはずなのに、雨や寒さ、コロナ禍、先達が不在ということ、少し前から手首がなぜかずっと痛んで鉛筆を持つだけでも悲鳴をあげそうな状態で、異例の修行に少しだけ心がざわつく。 でも、毎年集合場所である宮島の大聖院で、今年の先達、三浦さんの真っ黒に日焼けした相変わらず穏やかで優しく、そして逞しいお顔、毎年参加している常連の皆さんのお顔をみると、何も不安も無くなり「腹をくくる」気になった。 「受けたもう」と声に出せば、ストンと心がお腹の真ん中に戻ってくる。 さぁ。いざ山へ。 (※修行中は、時計も携帯も持たないため、写真はすべて撮っていただいたものです。今回の修行だけではなく、過去の修行の様子の写真も使用しています) 5回目の修行なので、淡々と静かに山道を歩く祈り時間。 とはいえ、急な山道がずっと続く登りは息があがる。そんなときは、足並みよりも心を整える。「息」は「自分の心」と書くように息が上がったときは、自分の心が根をあげているとき。 不思議と、息が乱れ始めると、着ている白装束も乱れ始めるのだ。 ただ、ひたすら自然の中を「無」になり、委ねる。 星野先達がいらっしゃらなくても、なぜかその魂は皆と一緒の気がするし、先達のあの大地に身体をフワッと委ねる歩き方は、5年間ずっと先達の後ろを歩いた私の脳裏に焼きついている。 筋肉を使って山を登ると、大地に抗い、あとからものすごい疲労や痛みが襲ってくるが、大地に抗うことなく、チカラを抜いて、まるで宙に浮いているように、ふわり、ふわりと、ひたすら地に自分を委ねるのだ。 たとえ肉体的な痛みや疲労が襲っても、頭と肉体は切り離す。 「無」であるということ。 夜は夜で、暗闇の中を夜間抖擻が行われる。今回、嵐というものに、初めて出会った。 誰もいない、誰も知らない山の山頂で、轟音とともにものすごい威力をしめす風。4月なのに台風が来たのかと思ったほどで、自宅のベランダの植物たちが心配になってきた。 カラダに体当たりして足元がぐらつくほどの強風に、恐怖すら感じてくる。 ふと、嵐って、山の風って書くよなぁと頭をよぎる。 嵐は、台風だとか、ひどい雨風だと思っていたけど、山の神様が、吹かせた特別な風。 山伏の皆たちは、昼間の雨で濡れた芯から冷え切った体を吹き飛ばされそうな嵐のもとにさらしながら、悠々と月を愛でている。 すごいな。この人たち。ほんと愛すべきド変態だ笑笑 山の上で、静かに美しく輝く下弦の月と星。でも、きっと一生忘れないほどの、美しい月の姿だ。 その光のもとで吹きつける恐ろしいほどの轟音を響かせながら、嵐が起こる。 恐怖や不安は妄想でしかないのだ。 大変な状況で見えてくるものは、本当に美しい。 翌日も、朝から雨。 止みそうもない雨の中をまた今日も歩く。 足を止めた休憩のときですら、森の中で、まるで植物のように、 宮島の鹿たちのようにじっと雨に打たれて続けている山伏たち。 普通の生活していれば ありえない体験で。 雨なんて打たれなくていいよ って言う人たちは、きっとたくさんいる。 でもね、子どもの時って 傘もささずに雨に濡れていたかったんだ。 なんかすごく、贅沢な時間のギフトだなぁって思ったよ。 ただ、海の禊から出た後の、お昼ご飯の握り飯。 いつもなら、禊とあとの気持ちよさに、とても爽やかな清々しい楽しみな時間だが、雨に濡れたあとに海に入って、もはや心底冷え切っている。 こんなに手足をガタガタ震わせながら、震えすぎて握り飯がなかなか口に入らない。これは人生初めての経験でした。 どんな素晴らしいことが書いてある本より、人は自分が体験したことに勝るものはない。 だから「受けたもう」なのだ。 それがどんな過酷でしんどくても、でもそこから何を感じるか。 2日目の少し雨のあがったときに、立ち寄った大きな大きな樹。ひっそりと、森の中に佇むご神木だ。…